ふじのくに野外芸術フェスタ2014『SL-白鳥の湖まで-』演出ノート

【昔話の始まり】

昔話とかお伽話を初めて聞いたのは何時だったろうか。夜、寝る前に母親が語って聞かせてくれたのが最初だろうか。それは何のお話だったろう、桃太郎のお話?猿蟹合戦、かちかち山、鶴の恩返し?日本の昔話だとは限らない、外国のお話かもしれない。白雪姫、三匹の子ブタ、狼少年の話、白鳥の王子、等々……そして、これらの昔話お伽話の類いは様々な事を考えさせてくれました。物事には分相応というのがあって欲張りすぎてはいけない、とか、嘘をついて人を騙してはいけない、だとか、真面目に努めていればきっと良いことがある、とか……。

しかし、そもそもこれらのお話はどうやって出来たのだろうか?実際に起きた出来事が語り継がれているのだろうか、それとも誰かが想像力を働かせて書いたの?誰かが作ったのだとしたら、それは何故だろうか。


というような、昔話について考えた演劇を今から始めようと思います。

石井幸一

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【SL-Until Swan Lake-】

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【SL-Until Swan Lake-】

ネルケプランニング製作『蝶々殺人事件』演出ノート

【蝶々殺人事件】演出ノート

 『これからの日本』について語るところから横溝正史の【蝶々殺人事件】は始まります。探偵は言います―

 こういう時代には殺伐とした事件があっても、念入りに計画された犯罪なんてないものだ。誰も彼も浮き足立っているから、犯罪の方でも念入りに計画を立てる余裕なんか無くなっている。それに殺人事件も、社会秩序が保たれて、人命が尊重されていてこそ刺激的だが、こんなに人の生命が安っぽく扱われる時代じゃ……ねぇ〈中略〉……いつまでも、人の生命が安っぽい時代が続いちゃたまらない。今まで以上に、ひとりひとりの生命の尊重される時代が来る。

 【蝶々殺人事件】が書かれたのは昭和二十一年のことで、戦時中に作家活動を制限されていた横溝正史がそれまでの鬱憤を晴らすかのように書き出した本作には、そんな横溝の『これから』への希望がうかがえます。

 それから七十年余りたった現在、私たちが暮らすこの世の中はどうでしょう。ひとりひとりの生命が尊重される時代になっているでしょうか。年間の自殺者数は三万人を越え、人と人との繋がりは途切れ、他者への興味などは薄まって、作家の言葉を借りるなら、相も変わらず『人の生命が安っぽく扱われる時代』は続いているように私には思えます。

 横溝正史は人間の死を題材として多くの作品を残した作家ですが、その死は決して無差別的なものではなく、「緊密な人間関係」や「閉鎖的な村落社会」といったシチュエーションがあって、それにより、どうにも逃れることが出来なかったモノとして書かれています。

 要するに『訳もわからず殺されたんじゃ堪らない』ということです。

 しかし今の日本で、そのようなシチュエーションを備えた場はあるのでしょうか。または、無いとするならばそれを作る事は可能なのだろうか……狙ったわけではありませんが、この【蝶々殺人事件】の舞台となる劇場、いま皆さんが居るコノ劇場こそが、現代に残る数少ない横溝作品の舞台となり得るのです。これから皆さんの前には「緊密な人間関係」に囚われた歌劇団員たちが現れます。そして、彼らはこの劇場から出ることが出来ません。

 間もなく開演の時刻となるでしょう。最後に【ファウスト】の一節を拝借して私の挨拶を終わりにしたいと思います。

 貴方の官能が、退屈な一年間をかけても味わえないほどのものを、今この一時のうちに出してお目にかけましょう。これから優しい霊たちが唄を歌ってお聞かせしたり、繰り広げてお目にかける美しい風景は、決して架空の幻術によるものではないのです。下準備は要らないのです。『役者』はもう揃っている、さぁ、始めろ!

 本日はご来場頂きましてまことにありがとうございます。

                        石井幸一

 

蝶々殺人事件の2

ネルケプランニング『蝶々殺人事件』。

今日は初めての通し稽古、なんとも言えない緊張感に抑圧されたなぁ。とはいえ、そういう緊張に打ち勝たねば先は無いわけで、勇気を持たなけりゃならないな。強いハートを。

チケットは絶賛発売中です。

http://www.nelke.co.jp/stage/chouchou/

稽古場での稽古も残すところあと2日。

蝶々殺人事件

ネルケプランニング製作で横溝正史『蝶々殺人事件』を演出する。

稽古は10日を過ぎて、まず最初の給水所だろうか。

新鮮であり、難しくもあり、でも非常に勉強になる。

原発音頭/Nuclear power plant Leading

原発に スズメが三羽止まってた

それを猟師が鉄砲で撃ってさ

煮てさ 焼いてさ 喰ってさ

ヨイヨイヨイヨイ オットットット

ヨイヨイヨイヨイ オットットット

Sparrow had stopped three birds in the nuclear power plant, hunter shot in the gun it.

Then, sparrow are boiled, and baked, eaten.

Yoiyoiyoiyoi oops-a-daisy

Yoiyoiyoiyoi oops-a-daisy

詠み人知らず

Anonymous

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第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加公演
『My Journey to the West』 
原作:中島敦(わが西遊記、他の短編より) 
構成・演出:石井幸一 
出演:文秉泰、伊藤全記、小助川玲凪、鈴木正孝、菊原真結、山田裕子  
撮影:大滝花奈
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.534874173269528.1073741830.111013905655559&type=3

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第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加公演

『My Journey to the West』 

原作:中島敦(わが西遊記、他の短編より) 

構成・演出:石井幸一 

出演:文秉泰、伊藤全記、小助川玲凪、鈴木正孝、菊原真結、山田裕子  

撮影:大滝花奈

https://www.facebook.com/media/set/?set=a.534874173269528.1073741830.111013905655559&type=3

第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加公演『My Journey to the West』演出ノート

■演出ノート [Director’s Note]

脳髄の旅

 自分が今いる場所は何処なのか、ソレを知る為には、此処ではない何処かに行く必要がある。言い換えれば、何処かに行ってしまえば、自分が居た場所が何処だったかを知る事になる。

 戦前、南洋庁の官吏としてミクロネシアに赴任していた彼は、そこで自分(それは、自分が属する国家や文化とも云える)と他者(この場合は、現地の住民たちであり、彼らの文化であろう)との違いを感じたと思われる。そして彼は、その後、異人種(場合によっては人と人だけに限らない)との交歓によって、自己の依って立つ場所を見出そうとする作品群を書き続ける中島敦という作家になった。

 今作「My Journey to the West」は、中島敦の未完の小説「わが西遊記」と幾つかの短編に材をとることで、近代の知識人が考えた(悩んだ)道行きを辿る、いわば中島敦の脳髄を出発点とするロードムービーだと思って頂きたい。この道行きが、何処へ辿り着くのか私はハッキリとした答えを持ち得ないが、旅を続ける事が必要なんだと、今は考えている。

 本日は、ご来場頂き、ほんとうにありがとうございました。

                       石井幸一

                  

kamagayaag:

Asia Theatre Directors’ Festival 2013/アジア演出家フェスティバル2013
『Miss Julie』
原作:A・ストリンドベリ 
構成・演出:石井幸一 
出演:前島謙一、伊藤祥子  
撮影:武者輝
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.512873502136262.1073741828.111013905655559&type=3

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Asia Theatre Directors’ Festival 2013/アジア演出家フェスティバル2013

『Miss Julie』

原作:A・ストリンドベリ 

構成・演出:石井幸一 

出演:前島謙一、伊藤祥子  

撮影:武者輝

https://www.facebook.com/media/set/?set=a.512873502136262.1073741828.111013905655559&type=3

アジア演出家フェスティバル2013『令嬢ジュリー』演出ノート

Asia Theatre Directors’ Festival 2013『Miss Julie』Director’s Note

【ストリンドベリの予言】

 『令嬢ジュリー』の作者ストリンドベリは予言している、

 『やがて我々がもっと発達し啓発されて、今の我々には粗暴にも野卑にも無慈悲にも思える、この人生の演劇を平然と眺めうる時代……我々の判断器官が極度に発達して、感情と呼ばれる低級な、頼りにならぬ精神機械が無用有害なモノとして廃棄される時代が、恐らく来るであろう』(令嬢ジュリー序文より)

 ストリンドベリがこの言葉を書いてから100年余りが経ったが、果たして今の我々はどうなっているだろうか。人間の自然、本質を体現することによって、または暴き立てることによって、眠っていた感性を目覚めさせるのが自然主義の目的だった筈である。しかし、新劇に代表される日本における近代西洋演劇の輸入は、物語の筋立ての紹介、ただ感情を発露する要素としての科白の翻訳にとどまってしまったように私には思える。テレビで放映されるソープドラマとコノ戯曲とに既視感を感じるのはむべなるかな。我々は今、コノ戯曲を平然と受け止めることが出来る。しかし、それはストリンドベリが言うような発達だったのだろうか。もしや、ただ摩耗しただけではないか。

 私は今回、戯曲を書く作家と事象の証言者である女との対話として舞台を構成した。それは、ストリンドベリが批評的に描こうとした世界(その表出である戯曲の言葉)と、ストリンドベリ本人の言葉に眼を凝らし耳を澄ますことにより、未だ『近代』を生き続ける『現代』の我々が、感覚器官を研ぎ澄まし、今から先について考えるためである。


                                       石井幸一